【部員ブログ】だから僕は今日ここでサッカーをする
あと3ヶ月。
僕の大学サッカーの残り時間。
4年間暑い日も寒い日も必死にボールを追いかけてここまでやってきたけれどそんな日々ももうすぐ終わる。しんどいランメニューも倒れそうなほど暑い日の練習ももうすぐ僕の日常から姿を消す。
僕はこれまでの部員ブログで「なぜ大学でサッカーをしているのか」について自分なりに考えてきたつもりだ。
ただこれまでのブログは「自分が」大学サッカーをする意味を見つけようとしてきたにすぎない。引退を目の前にした最後の部員ブログでも、性懲りも無く「サッカーをする意味」について書こうと思うわけだが、今回は【京都大学サッカー部で】サッカーをする意味、とりわけ京大サッカー部が勝利を目指す意味について考えたい。
京大はいわゆる難関大学と言われる部類でスポーツ推薦もなく、正直入学の時点でかなりの選抜をされてしまう。その選抜を勝ち抜いた後に体育会のサッカー部に入る人間は本当に稀有な存在である。大体の人間が県有数の進学校出身で、Jユースや全国大会経験者はほぼいないと言っていい。
京大に入るという目標の後にサッカー部の存在があるから、京大サッカー部でサッカーをする意味を考える人はおそらく部内にほぼいないと思う。かくいう自分も入部当初はそちらの側だった。
本気でサッカーがしたい。強い相手に勝ちたい。
そんな気持ちでサッカー部に入ったわけである。
でも、これでは京大サッカー部でサッカーをする意味、京大サッカー部が勝つ意味ではなく、自分が大学でサッカーをする意味にとどまってしまう。
そうではなくて、運命的とも言える出会いを果たしたこの仲間と、京都大学サッカー部という組織で、今という時代にサッカーをする、勝利を目指す意味を考えたい。
ただ自分がサッカーをしたいという欲求は4年という時間で姿を変えた。そして今、組織の存在意義とでも言える形で僕の中に明確に立ち現れている。
京大サッカー部でサッカーをする、京大サッカー部が勝つことの僕なりの意味、それは可能性を切り開くことである。
では誰に対して可能性を開くのか?
それはこれから大学を目指す高校生、さらにはそれより下の年代の子供たちである。
サッカーというメジャースポーツで強豪相手に京大が勝利することには絶対に価値がある。それは弱小校が強豪校に勝つという陳腐な物語的価値ではない。サッカーと勉強の両立を目指して頑張る高校生たちに、大学サッカーという素晴らしい舞台を伝え、そこで自分が活躍する姿を想像できるようにするという価値である。
これはどこの誰でもが与えられるものではない、僕ら京大サッカー部にしか提供できない価値である。京大サッカー部が勝つということは、同じような状況にある人々に、大学でサッカーをするという可能性を切り開くことになるはずである。
ここまでチンタラと自分の思いを書き連ねたけれど、僕は確信している。
僕らの勝利の先には思いもかけない壮大な世界が広がっている。僕らの勝利には数多の夢と希望が詰まっている。
「プロになれないのになんで?」
そんな無意味な問いかけはもうやめよう。
僕らには僕らだけの価値がある。
プロでさえ与えられない夢がある。
そう信じている。
だから僕らは勝たなければならない。中途半端では終われない。京大サッカー部には可能性がある。京大サッカー部には責務がある。可能性を実現し責務を果たすために、やはり僕らは勝たなければならない。勝つしかない。
僕らにしか与えられない価値がある。
だから僕は今日ここでサッカーをする。
4回生プレーヤー AG 森山開維