【KIU BLOG】果
「人は失ったものを確認することで失敗を確認する。失ったものを確認しない、つまり結果と向き合わないことは足踏みである。」
「他人の答えを集めたところで己の経験にはならない。自分を変えてくれる「なにか」は存在しないかもしれない。その「なにか」を探している間にごく普通の鍛錬を積んでいる人はいる。その現実から目をそらしてあやふやな飛躍の可能性に期待し続けることは典型的な足踏みでしかない」
これは最近読んだ漫画のセリフの一部。
このセリフを見て皆さんはどんなことを思うのだろうか。
自分に矢印を向ける。
ありとあらゆる人が、いろいろな場所でこの言葉を使っている。しかし、あくまで主観だが、自分の周りで少しでも真に実践できている人はほとんどいないと思うし、実践し続けている人は二十数年の人生で未だかつて出会ったことがない。言わずもがな、私もできていないときのほうが多い。
できないという現実を受け止めることが、できていない自分を見つめることが、結果と向き合うことが苦しくて逃げる。あるいは、少しの間はそれができても、長くは続けられない。そうなると、不都合があれば妥協して自分をごまかしたり、自分ではなく外に原因を求めたりしてさらに自分を顧みなくなる。そして、自分の実力を、正しい自分の立ち位置を見誤る。気づいたら歩は止まっており、足踏みしているのだ。
「実力とは、結果にプラスの影響を及ぼす能力なので、いずれ結果に表れる。実力が欲しければ結果を出すしかない。」
「不運や理不尽を嘆いても無意味で直面した状況で結果をどれだけ最善に近づけられるかで実力が試される。」
なんて簡潔で分かりやすく、それでいて残酷なのだろうか。
ある場面を切り取ったとすると、そこから場面転換した次の場面が切り取った時の場面よりも良い場面になっているかどうかだけで実力は測られるというのである。そして、当然、場面の切り取りというのは離散的なものではなく、連続的なものなのでどんな些細な瞬間であっても実力は試されているのである。息つく暇などない。
そして、最も残酷な点は、自分の状態や周囲の人間や環境などの状態なんて一切関係ないのである。直面したいかなる状況であっても、己がその状況にふくまれているならば、その状況の結果だけで真の実力は測られるのである。
たとえ自分のせいでなく、他人や周囲の環境が原因で結果が悪いものになったとしてもだ。
でも、考えてみれば当たり前だ。
サッカーで考えてみよう。わかりやすく、自分にとんでもない嵌めパスが来た場面を想像してみてほしい。その状況が十回あったとしたとき、その状況を何回打破できるだろうか。人それぞれだが打破できる回数はせいぜい数回だろう。打破できない場合は結果が良いものにはならず、大抵の場合は悪いものになるだろう。もちろん、悪い結果を招いた原因は自分ではなく来たパスにある。では、その嵌めパスを受ける選手をメッシに置き換えてみたらどうだろうか。打破できる回数は間違いなく自分より多くなることは想像に難くないし、なんなら十回中十回打破してしまうかもしれない。
ではそうなったとき、自分とメッシとは何が違うのだろうか。
いろいろ違いはあるがそれらをひっくるめてこう言う筈だ。
実力が違う、と。
もちろん例が極端であることは重々承知であるが、実力があれば周囲がもたらすマイナスをプラスの結果にできる可能性が高いのは揺るがない事実だ。その意味において自分の状態や周囲の人間や環境などの状態なんて言い訳にしかならないのだ。不運や理不尽を嘆いたり、文句を言ったり、責任転嫁することに意味なんてないのだ。なぜなら、状況に対する結果がすべてなのだから。
「直面した状況で結果をどれだけ最善に近づけられるかで実力は測れる。」
このセリフを見たとき、実力というあやふやなものの本質を教えてくれていると思った。
そして同時に、実力者とは自分に矢印を向いている人だと改めて思った。ありきたりな表現を借りれば、実力者は他人などの定数ではなく自分という変数だけをいじるのだ。サッカーで例えるなら、味方がハマっている状況で放置するのではなくどうにかボールを受けに行ってそのピンチを脱しようとしたり、とんでもないパスが来てトラップをミスしても、パスが悪いとパサーに誰でも言える文句を言うのではなく、そのパスにどうにかして対処してマイボールにしようとしたりするということだろう。自分が勝手に思い描いたベストを捨てて現実に即したベストを出そうとし続ける人ともいえるだろう。
実力ある者は主張すれど、他人のプレーやミスを批判したり文句を言ったりしないといわれるのはこういう姿勢が備わっているからだろう。
もちろん、弱者である私は不運や理不尽を嘆き、文句を言ってしまう。なんて情けない。
しかし、ぐさぐさと私の心をえぐるセリフの数々の中に、救いもあった。
「己を知り適正なレベルに挑戦し、目の前の一段を登るために必要な要素を一段の中でさらに刻んで自分が登れる小さなステップに分解する。これを努力と呼ぶ。その結果として、もともとできなかったことが訓練次第でできるようになる。自分にできる高さまで刻んで、できるようになったという無数の事実が自信に変わる。」
困難は分割せよ。そういうことである。
幸いにもこれには少し身に覚えがある。思い返すと大学サッカーで成長を実感しているときは間違いなくこのステップを踏んでいる。課題を可視化し、自分に合わせたステップに切り分け、自分の集中すべきことを明らかにする。そして上を見るでも下を見るでもなく目の前だけを見て、ひたすらそのステップを登ることだけに集中する。
良かった、足踏みだけのサッカー生活ではなかったようだ。
先の短いわたしでもまだ変わるチャンスはあるのだ。
あと少し、もう一段ステップを登りたい。
4回生プレーヤー 高嶋祐司