【KIU BLOG】運の良い奴
「ああ、運が悪いな」
そう思ったのは今年8月の頭。右足首の靱帯が一本完全断裂していた。試合中、相手のスライディングを避けられず、人生で一番足首を捻った。
調子良かったのに。最後の双青戦は1週間後なのに。あと3ヶ月で引退なのに、どうしてこの時期なのか。運の悪い奴だと3日間は思っていた。
怪我から5日後、状況が変わった。痛みをほとんど感じなくなった。日に日に腫れが治まり、痛みも薄れ、1週間後には、双青戦で京大が得点した時、怪我のことを忘れて仲間にダッシュで駆け寄るくらいには回復していた。そして、全治2ヶ月と言われたところを、無理した部分はありつつも、3週間でピッチに帰ることができた。丈夫に育ててくれた親や、リハビリのため尽力してくれた人々や仲間の存在が有難いと実感した。私を取り巻く環境に感謝しつつ、自分は運の良い奴だと思った。
「俺って運の良い奴か悪い奴か、よう分からへんな」
そもそも運とはどういうものなのか。
昨年度の講義にて教授が、言葉の意味を調べると意外に面白いと話していたことを思い出し、「運」について辞書を引いた。
①天命②幸・不幸、世の中の動きなどを支配する、人知・人力の及ばないなりゆき③特に、よいめぐりあわせ。
別に面白くはない。言語学的なセンスが無いだけか。そんなことは置いといて、「運」の意味に関しては、②が今回の話題に適しているだろう。
ところで、大学受験の話をすると、私は合格最低点+1.45点で合格した。共通テストで時間が足りず当て勘で塗りつぶした設問を、2じゃなくて3にしていたならば落ちていた。私の周りの人は大体知っている話で、また擦ってしまったが、やはりこれは人生において最も運が良いと感じた場面のうちの1つである。もはやこの出来事だけで自分は運が良い奴だとまで言えそうだ。
果たして、これは運の良い出来事なのか。というのも、マークを無作為に1や3を選んで解答していた場合、他の大学に進学していたことになるはずだが、その場合の人生はあるいはより幸せなものだったかもしれない。そうすると、かえって運が悪かったとも捉えられるかもしれない。
まあ言葉の意味に立ち返れば、結局のところ、運なんてものは、人知・人力の及ばないなりゆきらしい。わがままにサッカーに熱中できる環境がある今の生活は、有難いもので、毎日本当に楽しい。しかし、人知の及ばない、すなわち神なるものの視点から見れば、実はもっと幸せな人生の世界線とでも言えるものがあったというのでは、何か自分の周囲の人々や環境を悪く言われているようで、単純に嫌である。
ここまで文章を書いてきてどうかと思うが、自分が運の良い奴かどうか深く考えるだけ無駄だと感じた。小学校入学後、何となく野球ではなくサッカーをすると決めたこと。受験でのランダムマーク選択。就活における企業と私の適性。こうした多くの運の要素によって作られてきたこれまで、そしてこれからの人生が、本当に幸福なものか確認したいがために、わざわざ運の良い奴かどうかという観点から私は考えているだけなのだろう。
全員がサッカーに熱中し、歓喜を共有できる京都大学体育会サッカー部の一員として活動できている私の人生は、当然この上なく幸せなものに決まっている。
「ああ、運の良い奴やな」
当たり前のことを書き連ねてきたが、結論、私は自負する。これを胸に、今後社会に出る中で様々な障壁にぶつかろうとも、持ち前の運の良さを活かして乗り越え、幸せな人生を全うしよう。だがとりあえずは、引退までに学生リーグで何点か決めるのに、運を使わないとね。
4回生プレイヤー 古家光基
