【部員ブログ】天才
小学校の授業において誰かの発言に対して、人差し指は「賛成」、グーは「反対」、ピースは「付け足し」といったものがあったと思う。当時はこの決まりに対して何の疑問も抱かず、微塵の躊躇もなく「反対」や「付け足し」を述べていた。だが、二十歳をとうに過ぎ大学3回生になった今の自分はどうであろうか。他者の意見に対して、素直に「反対」や「付け足し」を述べれるだろうか。言ってしまえば、ある意味これが大人になったということなのだろうか。
良くも悪くも自分の本心を殻に閉じ込め、その場の雰囲気を感じ取った上での選択をする。どこかで周りの目を気にし、無意識に異質であることを避け、白線上を踏み歩くことだけを考える。子どもの頃、「はやく大人になりたい」と漠然と誰もが思っただろうが、なりたいと思ったその大人に近づいた今、果たして納得いくものであろうか。自己保身に全振りし、その場凌ぎのテクニックと見かけだけの鎧に身を包まれたそんな自分に。
思えばいつもそうだった。
いつからか将来の夢に「サッカー選手」と書くのは躊躇するようになり、自分より優れた人間を「天才」という一言でくくり、自分の可能性を信じなくなった。別に「天才」という言葉は悪口ではないが、その言葉一つでくくり、最初から優秀だからとかセンスがどうとか言ってる時点で、勝負の土俵にすら立ててなかったのだと思う。
似たようなことを、今度は5年後、10年後過去を振り返ったとき「20代前半の自分はどう」とか、「これに気づいてなかった」とか言うのかもしれない。だが、人生ってそういうもんの連続なのかなとも思う。一度きりの人生において、やっぱり何が正解でどんな考えが良いかなんて誰も分からないし、そもそも正解自体が存在するのかすら怪しい。
そんなこんなで結局は「今を全力で生きる」ことが自分のすべきことなのかもしれない。自分に対してもう少し素直になり、もう少しだけ自分のことを信じてあげよう。サッカーを始めたあの頃のように、無我夢中でボールを追い、ピュアな心でサッカーと向き合おう。人の原動力は案外幼稚なものであったりするもんだし。
今を全力というありきたりな言葉に着地してしまったが、決して簡単なことではない。人生とはスイカのようなもので、ほとんど飲み込めるものの、ときにはどうしても飲み込めないものも出てくる。だがそれを無理に飲み込まなくても、違う角度からアプローチしてみればそこから芽が出ることだってある。晴れた日の花より、雨の日の花の方が美しいってどっかの本で読んだ気もするし。だからこそときには「天才もいる」って思わないとやってらんないかもしれない。あーあこれでまた振り出しに戻されちまった。
三回生プレーヤー 森山翔太