【部員ブログ】サッカーができない、石川聡一郎と彼の思考の日々
先日、家の近くの公園でトレーニングをしていたときのことだ。
「プロの人やと?」
靴紐を結び直していた僕に、頭の丸い影が話しかけてきた。振り向くと丸刈りの少年がたっていた。
「なんでや(笑)」
少年の声と顔がミスマッチだったのと問いが意外だったのとで笑ってしまった。遠くからの探るような視線を感じてはいたが、そんなこと聞かれるなんて想像もつかなかった。
「プロなると?」
「いやいや(笑)、ならんよ。」
「そうやっちゃ、、、さよなら。」
なんやそれ、と一人で突っ込みをいれた。小走りで友達の輪に戻っていく坊主頭をながめながら、足を入れ替えた。
日は落ち、母からの帰宅の催促を受けて帰路につく。じんわり暖かいアスファルトの上を歩きながら、ふと、少年の問いについて考えた。彼の問いは僕の中で巡り巡って、「なぜ自分がサッカーをしているのか」という問いに変わっていった。
サッカーを始めたのは幼稚園生のころだった。理由は多分、家に転がっていたボールがサッカーボールだったからだろう。幼稚園児のチームがなかったから、小学生のクラブに無理矢理入れてもらった。そのせいか、お団子状態のサッカーに参戦するのを諦め、ボールの出てくるところを待っていたのは記憶している。そして今まで16年間サッカーを続けている。
なぜだろう。怪我や病気、進路等の理由で幾度となくやめる機会はあった。それでもまだ、20歳になってもまだ、サッカーをしている。
なぜだろう。
家に着いてしまったが、気になったから庭のベンチに腰掛けた。蚊が少しいるがまあいい。
自分自身に問う。「自分にとってサッカーとは何か。」僕なりの答えとして「もう一つの人生」というのが適当なような気がした。足りないところを補い、強いところを延ばし、仲間と協力し、結果を残すため、自己実現をするためにtry and errorを繰り返す。ほとんどはうまくいかなくて、でもたまに遭遇するほんの少しの大きな喜びのために全力を注ぐ。サッカーって難しい。でもサッカーって楽しい。人生を悟るために人は仏の道に身を置いたり神に仕えたりする。それでもまだ人生を完璧に説明できる人はいない。サッカーの難しさも魅力も人生のそれに似ていると思う。ここまで考え、4匹目と5匹目の蚊をダブルキルして中に入った。あの少年との会話から生まれたサッカーについての探索はそこで終わった。
自分にとってのサッカーというのを、なんだかんだ初めてしっかり考えたような気がする。サッカーが1割増しで魅力的に見え、それに比例してサッカーができない、いまに対するもどかしさが膨らんだ。
人生と同じようにサッカーにもいつか終わりが来るはずだ。それが卒部のときか大けがをして近いうちかは分からない。好きならとことんやってみよう。難しくても。きつくても。サッカーし続けても意味なんかないかもしれないけど、意味あるかもしれない。
その次の日は母の日だった。母が僕の古いアルバムを引っ張り出してきて、僕の小さい頃の写真を振り返った。その写真の僕はほとんどサッカーをしていた。試合に勝った日の写真の僕は満面の笑みでこっちを見ていた。「あんた、お母さんたちが応援に行くと張り切って走り回っちょったがね。」なんとなく覚えている。多分カメラを持っているのは父でその横には地面しか撮れていないビデオカメラを持った母がいたはずだ。応援されるのがうれしかったんだろうな。難しいこと考えたけど応援されてそれに応えるっていうのが僕の中で大きかったのかな。
今日もまたあの少年を見かけた。今日は坊主頭の群れの一員だった。あー、野球部なんだろうな。目が合った。自転車を立ちこぎする少年が体をねじって言った。
「頑張ってください!」
何に対しての頑張りを期待してかけられた言葉かは分からないが、応援された。
3回生プレーヤー 石川聡一郎