【部員ブログ】控除説
サッカーをやめようと決めた日のことは鮮明に覚えている。
まだ暑さの残る10月の平日。鶴見緑地競技場。
京大は大阪産業大学に0-2で惜敗し、グラウンドには肩を落とす選手たちの姿があった。
しかし、それをベンチから見つめる僕の目には、彼らの姿は秋晴れの空の下にある退屈な風景に過ぎなかった。試合結果は僕の関心事ではなかった。僕はただ1時間後に始まるオンライン授業に間に合うのか、ということばかり気にしていた。
試合後の反省が終わるとすぐに、ユニフォームを脱ぎ、チームの荷物の後片付けを一通り済ませた。そして、地下鉄に駆け込み、京橋駅のサンマルクに入った。鞄からノートパソコンを取り出す時に、自分の着ていたユニフォームから蒸れた汗の臭いがする。ウォーミングアップしかしていないのに。
すっかり形骸化してしまったオンライン授業の出席確認を終わらせた後、少し落ち着いてコーヒーを飲んだ時に決めた。
サッカーをやめよう。
民法の授業を犠牲にしてベンチに鎮座し、駆け込んだカフェで汗だくになりながら授業を受けていることがひどく馬鹿らしかった。「意味がない」とは、まさにこのようなことを指すのだと思った。
そして、法曹になる将来のことを考えれば、授業を受けて良い成績を取ることがサッカーよりも大切なことは明白だった。将来のことを差し置いて、サッカーに多くの時間を割くことを正当化できる理由がなかった。というより、そもそも僕はその日、サッカーをしてすらいない。導かれた結論はあまりに必然だった。
しかし、僕は双青戦(東大との定期戦)の担当者だったので、2月の東大との試合が終わるまで部活をやめられなかった。僕がやめることで東大生や下の学年を困らせたくなかった。個人的な事情で周囲の人間に迷惑をかけるという行為は、これまでの人生で最も忌避していることの一つかもしれない。安直な考えで双青戦の担当者になった数か月前の自分を呪った。
部活を辞めると決めてから2月頃まで無感情でサッカーをしていた。単に双青戦のために部活に残っている僕にとって、グラウンドでの良いプレーも悪いプレーも特に何の意味を持たなかった。サッカーに価値を見出せず、空っぽの心に最後まで残っていたのは、息苦しいとか痛いといった身体的な感覚だけだった。
今後の将来のこと、部活における地位を考えれば、サッカーをやめることは、僕にとって何より道理にかなったことに思える。退部までの綿密な計画を着実に遂行していたのに、なぜ最後の一歩を踏み出さず、サッカーを続けているのか、理由は今でも分からない。
双青戦がコロナで中止になり、踏ん切りがつかなくなったこと。それでもやめようと決めた日に阪大サッカー部の知人に説得されたこと。実力を認めてくれる人がいたこと。様々な要因が考えられ、一つでも欠ければやめていただろうと思う一方で、どれもサッカーを続けて良い理由にはなりえない。
あの日からサッカーをしていて良いのかと自分に問わない日はない。本当は法律の勉強をしないといけないのに、夕方になればグラウンドに向かっている。罪悪感に苛まれながら大学の図書館を後にする自分をどうにかして正当化しようと試みる毎日である。
ところで、僕が好きな行政法の学説の中に、「控除説」というものがある。控除説は、「行政権とは何か」、という問いに対して、「行政権とは全ての国家作用から、立法作用と司法作用を除いた残りの作用である」と定義づける。行政権の内容は多様であり、その全てに共通する性質を積極的に定義づけることが難しいため、控除説は消極的な定義づけを行う見解である。僕は1回生の時に、この引き算の考え方を採った控除説の美しさに感動してしまった。
ほとんどやめることだけを考えてサッカーをしていた日々を経て、今もサッカーをして良い理由は、積極的に見つけることはできないままである。
そこで「控除説」に倣って消極的に考えたい。
そもそも、人間が生きる理由や意味はあるのか。多くの場合、人間が1人死んでも、他の大勢の人間には影響はなく、世界は変化しない。古今東西、数多の宗教や文化が死後の世界を想定しているのは、そうでもしなければ、今の世界を生きる理由、意味を見出せなかった証左だと思う。哲学者が議論してきた、この問いに対して僕が答えを見つけることは勿論できない。
全体的に見て、人生自体に意味が見出せない以上、その一部分であるサッカーに意味を見出すことは無理難題ではないか。人生そのものの無意味さ、不毛さを前にすれば、サッカーも法律の勉強も大差なく、どちらも意味や理由はないと思う。
でも、もし無意味な人生の中で、サッカーを通じて他の人と繋がることに価値すらないとしたら、人生はあまりに味気ない上に、救いが無さすぎる。ややもすれば、あらゆることに意味や理由を求め、逆により一層、空虚さや不毛さばかりが強調されかねない人生において、サッカーを通じた人との繋がりは、僕に生きる場所と人生の彩りを与えてくれると思う。意味や理由に還元できないものがそこにはある。その美しさは、控除説の美しさにも負けず劣らない。
「いつか死んでしまうなら、少しくらい意味のないことしてもいいか。」
そう思いながら、今日も僕は図書館を後にする自分を正当化し、グラウンドに行くわけである。
3回生プレーヤー 佐野康大