【部員ブログ】「これまで、そしてこれから」
こんばんは!
本日から部員ブログを更新していきます。京大サッカー部の個性豊かな部員を少しでも知っていただき、応援していただけるととても嬉しいです。
それでは記念すべき一人目、4回生プレーヤー朝田遼のブログをお読みください!
最近よく考えることがある。僕の軸とは一体なんだろうか。僕はどんな基準に従って物事を判断し、行動しているのだろうか。
今までの21年の人生、短しと言えども数々の分岐点があったように思う。今このブログを書いている瞬間でさえも、何か行動を起こせば人生の分岐点になるかもしれない。そしてそれぞれの分岐点でその選択をしたからこそ今の僕がある。これらの選択を今になって振り返ってみてふと思う。
そこに僕の確固たる意思があったのだろうか。
何か自分で思い描いた明確なビジョンがあったのか。
人の言いなりになっていたつもりは全く無いが、知らず知らずのうちに周囲が期待するような選択をしていたのではないか。
そして僕の判断基準の中で「周囲の目」が大きなウエイトを占めていることに気付く。
ある一人の人間の軸が「周囲の目」であるというのは、言葉にしてみるととても奇妙で矛盾しているように感じるが、僕自身を表現するにはとても的を射ているように思う。大きな決断をするときに限らず、僕が理想の姿を思い描くとき、それは結局僕が周囲からどう思われたいかを考えているだけであったし、どのようなキャラクターを獲得したいかを考えているに過ぎなかったと思う。
また僕は基本的に人に良く思われたい人間なので、僕が生きてきた社会の中で一般的に良いとされるキャラクターを獲得しようとしてきた。批判を承知の上で言えば、学校では勉強ができることが良いことだとされがちだし、サッカーチームではサッカーが上手いことが良いことだとされがちである。(ただ大学のサッカー部では活動がピッチ外にも多角的に及ぶことが多く、この傾向は薄れると思われる。)程度によるが真面目に物事に取り組むことも良いこととされがちである。
これらの良いとされていることは運良く僕の得意な分野であったので、これらに熱心に取り組みある程度の成果を出すことで、僕は真面目というキャラクターと文武両道というキャラクターを手にしてきた。多分、僕を知る人に僕はどんな人かと聞けばこれらの特徴を挙げる人が多いと思う。僕はそんな自分にそれなりに満足していたし、これらは良いことだと妄信して生きてきた。
ここまで自分について考えてみて、僕は不意に恐ろしくなる。
僕はどこにあるのか。
周囲の人間のイメージで構成された僕というキャラクターに中身はあるのか。
意思はあるのか。
いわば色即是空人間だ。そしてもう一年もすればサッカー人生も終わり、やがて社会に出れば、残されるのは自分のことを真面目だと思い込んでいる空っぽな人間というわけである。更に言えば、ここまでこれらのキャラクターが良いとされていると述べてきたが、これは僕がそう思っているだけで、絶対的な価値基準ではない。つまり僕は自分で都合よく想定した世界とその価値基準の中で、望むキャラクターを獲得したと思い込み、悦に浸っていたのである。その中身が空っぽなことには目もくれず。自分が価値があると思い込んできたものを失うと実感して初めて空っぽな自分に気付けた。
こうして考えてみると、「なぜ大学でサッカーをするのか」というありがちな問いにぶち当たる。僕はプロになれるわけでもないので、やがて失われる価値にしがみついているも同然である。それなら何か新しいことに挑戦しておいた方が社会に出た時に役立つのかもしれない。それでも僕はこれまでサッカーを続けてきた。ここまで全体的に、サッカーをまるで自己満足の道具かのように書いてしまったが、決してそんなことはない。大学に入って、今までより深くサッカーと向き合うことで、サッカーの楽しさや難しさ、そしてそれらをひっくるめた素晴らしさを感じさせてくれた。これも熱くサッカーと向き合い続ける周囲の先輩、後輩、そして同期のおかげだ。
サッカーが好きだし、京都大学サッカー部が好きだ。
これだけは自分の意思だと自信を持って言える。そしてこれこそが僕が大学でサッカーを続ける理由だ。僕にはこれで十分だ。
これからどうやって生きていこうか。きっとすぐに生き方を変えるのは難しい。まずはもっと自分と向き合い、自分の心の声を聞こう。新しいことにもチャレンジしよう。そしてとりあえず今年一年は今まで作り上げたキャラクターの集大成を周囲の人達に見てもらおう。やがて文武両道の鎧を脱ぐその日のために。
今日が人生の分岐点だ。
これを読んだ周囲の人はどう思うのだろう。
なんて考えるのもやめた方がいいか。
4回生プレーヤー 朝田遼