【部員ブログ】今を生きる
こんにちは。緊急事態宣言も解除され徐々に社会経済活動が再開されています。第二波への警戒・新しい生活様式の定着など元の生活に戻ることは難しそうで、もはや戻ることは出来ないのかもしれないなと思うこともあります。今回は部員ブログを担当することになりました。依然続くステイホームの暇つぶしにでも読んでみてください。
なぜ大学でサッカーをしているのか?今回はこれについて考えたいと思います。
よくある大学サッカー部員のブログ題材ですが
これは敷衍すると
「なぜ僕は今この行為をしているのか?」
ということになると思います。言い換えれば
「今僕が行なっているこの行為は、現在の行為それ自体として意味を持つのか?」
ということになります。とってもややこしい言い回しになってしまいましたが、今という時間が今として意味を持つのかということです。
僕は今は今として意味を持たない、又は持つことが少ないと考えています。一方で今という時間が、ある種刹那的な〝特別性”をもっているとは思います。
ダイエットを例に考えてみましょう。
一ヶ月間過酷なダイエットをしたとします。体重がみるみる落ちてしっかりと痩せられた場合、一ヶ月のダイエットには意味があることになります。
しかし体重が全く減らなかった場合(こんなことはあり得ないかもしれませんが、仮定の話です)一ヶ月間のダイエットは痩せることもできない意味のないものだったということになるでしょう。
この例からも分かるように、「今」の意味は未来の結果に左右されると言えます。
「なぜ今こんなことをしているのか?」
「なぜ大学でサッカーをするのか?」
今に対する「なぜ」という問いは先に述べたことに従えばほとんど無意味なことになってしまいます。今に意味を与えるのは「今」に続くこれからの行動、ないし「今」の帰結として考えられる未来の結果だからです。「今」の意味を今聞かれてもわからないというのが答えになります。誰も今の行為がどんな意味を持つのか知る人はいません。今の行為に意味がなければ、行為の動機はなんなのでしょうか?なぜ今その行為を行なっているのでしょうか?
ここで意味に代る新たな価値が必要になります。私は「今」は意味こそ持たないものの、特別であると思っています。そしてこの特別性が「今」の持つ価値であると思います。今という時間は今でしかあり得ません。そして今でしかできないことも多く存在します。
例えば大学サッカーです。高校生でもなく社会人でも無い大学生という短い時間でしか経験することができないのが大学サッカーです。
これは大学サッカー部員全てに当てはまる例ですが、個人にとってもこの「今」の特別性というものはあると思います。またそれは人それぞれ違うはずです。
今しかできないという限界性を意識すると人は頑張れるそうです。今しかできないということが行為の動機にあればなんだか頑張れそうな気がします。今しかできないならなんだか全力でできそうな気がしませんか?
最近やることなすこと意味がないといけないみたいな風潮があるような気がします。効率を上げるならそれが理論的には一番だと思いますが世の中そんなに上手くいかないような気もします。急がば回れと昔から言うようにやりたいことを全力でやった先に思いがけない大きな結果があったりすることもあると思います。意味なんてあとからついてくるでしょ。なんでって言われても今しかできないからなぁ。アホみたいな答えですよね。でも僕は今を合理的にではなく、今という特別性によって選択していきたいです。いつか今日を見返した時、特別性を無視した選択には後悔が残りそうな気がしています。多分今の特別性を感じる行為はその人にとってやりたいこと、かけがえのないことなんだと思います。そんな気持ちに合理性で蓋をしてしまうのはもったいないような気がするのは僕だけでしょうか?小手先の計算ではなく、心の本当の声に耳を傾けていきたいと思うのは僕だけでしょうか?
僕の大学サッカーもすでに折り返し地点を過ぎました。なんで大学でサッカーしてるの?幾度となく考えたこの題材に、僕は「今しかできないから」という答えになっていない答えを出して、残りの大学サッカーを全力で楽しむことにしたいと思います。
長々と駄文を失礼しました。読んでいただきありがとうございました。
3回生プレーヤー 森山開維